この数年、世界を受容したいと、わたし自身を開く、ということに意識を置いていました。
ところが、無限にあると思われていたその扉を、開いて開いて、開ききった先には、生まれたまんまのわたしがいました。
そして、それは、日本神話が言うところの、神であると思いました。
☆
そんな気づきを得た直後に、こんなことがありました。
カーラジオから流れてくる、とあるMCに、
なんて、キラキラとした輝きをもった響きなのだろう・・・。
いったい誰の声かな・・・。
などと、おもいをめぐらすわたし。
ところが、それは、わたしの苦手なあの歌手の声だったのです。
それまでは、彼女の声のMCがカーラジオから聞こえてくると、きゅうくつな気分になるのが嫌でした。その感覚を言葉にするならば、「きちんとしなくちゃ」とか「がんばらなくちゃ」というようなことでしょうか。
ところが、その時は、そういう感覚が再現されることなく、わたしは、その声を聴いても、すぐにいつものそれと気が付かなかったのです。
とにかく、最初に感受したのは、その声のもつ可能性と輝きでした。
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人は、世界を自分が信じている通りに見ています。
つまり、人それぞれの「色めがね」を通じて世界を見ているのです。
でも、その「色めがね」は外れた時にしかわからない。
つけている時には、それが「色めがね」だとは気が付かないものなのです。
「色めがね」をはずすことができた時、この世界の、ありのままの輝きを見ることができます。
この体験も、わたしがかけていた、ひとつの「色めがね」が外れた瞬間でした。
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