ねぇ かおるさん 耳からつくしが生えてますよ

レイキサロン&スクール風の城☆kaoruの気まぐれ日記

   3月 12

ブッタ

今、ブッタの本を読んでいる。

小説としてかかれたその中で描かれている、
人間らしい温もりのあるブッタの姿にとても親近感を
覚えている。

分厚い本で、読み切るにはまだまだ時間がかかるけれど。

読むほどにわたしの中に浸透していくブッタ。

今日は、歩いているさなか、小さなブッタが
わたしの中でともに息をしているのを感じた。

ああ、なんという歓喜!

遠い昔、わたしも、そんな修行僧の一人だったのかもしれない・・・。

そして思うこと。

偉人や聖者をかたどったものや、描いたもの。

そうしたものは、あがめるために使うのでなく、
自分の中にあるその在りようを目覚めさせるために使うのが、吉!

そして、わたしのためのガーター。

今日もまた
めざめた人で
ありましょう
わたしの中の
ブッタ(目覚めた人)と
ともに


   3月 10

歩くために歩く

久し振りの青空と太陽。

公園で、身体をうごかすのも・・・。
どのくらいぶりでしょうか。

随分ご無沙汰してしまいました。

「森は肺で、太陽は心臓だ」

とある高僧が、ある時えた気づきのことばです。

緑かがやく樹々の息吹を感じ、太陽のまなざしを受けながら
その真実がわたしにも深く響きました。

       ☆

「歩くために歩く」とは
今この瞬間に心を置いて、瞬間瞬間を味わいたのしむことの
ひとつの表現ですが、わたしもこれが気に入っています。

好きなだけ体を動かした後は、森の遊歩道を抜けて帰路につきます。

今日は、いつもより注意深く、
「歩くために歩いて」みました。

道々の風景を味わい愉しみ。
今に心を置いて、一歩一歩、あゆみをすすめた
とある時代の僧たちの一行と、
心が交わったような気がしました。

       


   3月 07

時間

首飾りのように
数珠つなぎになった
一連の玉たち

その糸が
突然切って落とされた

バラバラに
あちらこちらに
無軌道に
切れ切れになった
玉のひとつひとつ

それが
「時間」というものだよ

そんな夢だった


   3月 01

たかが糞、されど糞

我が家の周辺は、お散歩コースになっています。

ここ、1、2年でしょうか、
放置されたままの糞を発見することが非常に多くなりました。

はじめは、飼い主の心のなさに憤りを覚えもしましたが、
犬たちにとっては自然な欲求なのだし、糞をしていく犬に罪はなし。
いまでは、糞を片づけながら、どんな犬なんだろうな、と想像をめぐらしたりもします(笑)。

糞がしてある場所などに特徴があるので、
おそらく数匹のワンちゃんたちがいるのだろうと思います。

たかが糞。されど糞。
実は、この糞と向き合うことで、
自分の心のありようを面白く観察させてもらってきました。

糞と遭遇する度に、内に起こる不穏と対話すると、
それに対するポジティブな発想につながるものです。

先日は・・・。

この糞の後片付けをするのは、だれでもかまわないのだ。
大きな人という心で考えれば、それを放置した人も、わたしも、おなじ一つの心。
ひとりの人間のさまざまなる側面のほんの一面にすぎない。
つまり、それは、わたしのこころなのである。
それならば、わたしが喜んで片づけをしておこうじゃないか。

糞を片づけながら、そんなことを感じると同時に、
国レベルの大きな事故に身を挺して力を尽くしている人たちのことが脳裏をよりぎました・・・。

その日以来、糞を観ていませんが・・・。

この次、であった時、わたしはどんな対話をするのだろうな(笑)。


   2月 24

概念の森

林立する
概念の森を縫う
低空飛行

  ☆

この次元って
そんなものかもれしれない

心の目を見失うと
失速して
羽をとられる

そんなスリリングも
また楽し

わたしは
その森を俯瞰する
意識の目でありたいし

どんな概念をも包括する
宇宙そのものでいたい