自分を知るたび
世間体や常識
まわりの声など
自分自身でないもののために
いかに
自分で自分を縛っていたことかと
目が覚める
ああ
あの時のわたしに
言ってやりたい
そんなに
自分をせめなくとも
いいんだよ
あなたは
あなたの
望むままに
ただ
それだけなのだよ
人生とは
喜び笑い悲しみながら
本当のわたしに
出会う旅
自分を知るたび
世間体や常識
まわりの声など
自分自身でないもののために
いかに
自分で自分を縛っていたことかと
目が覚める
ああ
あの時のわたしに
言ってやりたい
そんなに
自分をせめなくとも
いいんだよ
あなたは
あなたの
望むままに
ただ
それだけなのだよ
人生とは
喜び笑い悲しみながら
本当のわたしに
出会う旅
何も必要ないと知るには、いろいろ試して、道具も使ったりして、体験してみるという過程が必要。
そこを超えていくと、ああ、もう、なにもいらないんだな、という気持ちになる。
そんな時、シンボルを使おうとしても意味がない。
体が言うことを聴かない。
ただし、始めから、なにも必要ないですよ、と言われても大方の場合、腑に落ちるはずもなく。
いろいろ試して、道具(シンボル)も使ったりして、実践につぐ実践をかさね・・・。
ようやくわかる。
最初から、必要なものはなにもなかったのだ、と。
ほんとうに気づきとは、いつやってくるかわからないもの。
たいていは、ある日、唐突に、なんの脈絡もなくやってくる。
大きいものがドーンと、訪れる時もあれば、ちいさいものがポツポツとクレッシェンドのように畳み掛けてきて最後にドーン、というのもある(笑)。
この年末年始は、感謝という荒波にもまれてもまれて・・・。
感謝というものほど人を人らしくするものはないな、と思うほど。その祝福を受けました。
そして、今日、太極拳のレッスンのさなかに、またしてもドーン!!!
「師は絶対である」
という言霊が私の中に響き渡りました。
その瞬間に、わたし自身の「驕り」というものが、クラッシュ。
音を立てて崩れ落ちていきました。
本当に長所と短所は紙一重。
その人の魅力であることが、それが行き過ぎると生き難さへと変わっていくもの。
なかなか溶けがたかった「我」という殻が破壊されたこと。
感謝という荒波(いや、これはもうハリケーンか!!!)にうちひしがれつつ、わたしの鼻っ柱を思いっきり張り倒してくれたこのエネルギーに感謝のことばもない!!!
わたしという人間は、感謝に感謝しているくらいで、ちょうどいい、笑、笑、笑!!!
我が生まれ故郷の地元では超有名、学問の守り神 岩津天神。
小さいころは、父に散歩に連れて行ってもらったり、小学校では、写生会があったり、中学では、高校の合格祈願が学校行事として行われたり・・・。
いろいろとお世話になった天神さん。
昔の、色気のない、地味~な雰囲気から一転、いつしか、商売っ気たっぷり、サービス精神旺盛な神社に様変わり。
お正月にはたくさの人たちが初詣に訪れます。
わたしたちも、去年に引き続き足を運びました。
近隣が初詣の車で渋滞していることに驚きつつ、わたしたちも、階段したまで続くなが~い行列を経てようやくお参りすることができました。
その帰り道、とあるお寺の看板を見つけて、足を延ばしてみようということになりました。
ところが、歩けど歩けど見つからないお寺さん。
ついには、見覚えのある風景に出くわしてしまいました。
なんと、わたしの母校の中学校。
天神さんから中学までこんな風に道が続いていること、知りませんでした!
なつかしさに、ふらふらと学校の正門前に引き寄せられて、構内を眺めていました。
「あのあたりで、バレー部の朝練に励んでいたんだよ。」
「あ、体育館の場所が変わってる!!!」
なんて話していると、中から、恰幅の良い男性が出てきました。
「わたしは校長の○○です。なにか御用ですか?」
「あの、昔の卒業生です。たまたま通りかかって懐かしかったもので・・・」
と答えると、「自分はもう10分ほどで出てしまいますので、その間でしたら、中にはいってみてもらっても大丈夫ですよ。」
と何とも暖かな心づかい。
その先生は、わたしよりももっと古く、中学が別の場所にあった頃の卒業生だとか。昔あった体育館が取り壊されて駐車場になったことなど、教えていただきました。
校長先生とこんな風に話すことってなかったな・・・。
あのころの「校長先生」という人のイメージは、いつも何をいっているかわからない人という感じでとてもとても遠い存在でした。
それなのに、今。
この目の前で話をしている、この校長先生からはとても、あたたかなものを感じるのです。
きっと、たくさんの生徒たちに接して、多くの同僚や父兄とのかかわりを通じて濃厚な教師生活を送ってきたに違いない。
ものすごく、子どものことを想っているんだろうな、というイメージが湧きました。
そして、校長先生と別れて歩き始めると、わたしの中の、中学というイメージの場所が、暖色系になってポワンと浮かぶのを感じました。
すると、とめどもなく涙があふれ出しました。
あぁ、わたしが過ごしたあの場所は、こんなにも温かいところだったんだと。多くの先生方に見守られ愛されていたのだと。
あの頃にはみえなかった大切なもの。30年もたってようやく受け取ることができたみたいです。
はじめて会う、まったく見ず知らずの校長先生とのほんの一言二言の会話で、こんな風に思いもかけない癒しが起こることも不思議ですが、たまたま同じ中学出身という幸運も手伝って、記憶の糸がほぐれたのかもしれません。
癒しとは、記憶の、つまり情報の書き換え。
あるいは、新たな視点を得ること、とも言えるでしょうね。
癒し、癒し、と取り組んでいたころは、ほってもほっても浮いてくる心の傷と向き合うことが面白かった。
でも、ある時、これは、掘っている限りとめどもなく出てくるものだと気が付きました。
だから、今は、もう掘り返したりしません。
今ある喜びを胸に、しあわせに満ちた気持ちで日々を過ごしていると、癒そうとしなくても、こうして、癒しは訪れます。
わたしが、あの、中学の頃のわたしとなんら変わることなく、同じ表情をしていたら、校長先生は出てきてくれなかったかもしれないし、まったく違う話の流れになったかもしれないし・・・。わたしの中で、癒しが起きることもなかったでしょう。
あー、だから、生きていくってお面白いです。
きっとまだまだあるよ。情報の書き換えが可能な記憶のパーツが。
だって人間だもの^^。
その記憶のパーツが、こんな風に、一瞬にして書き換わる。
その瞬間に生まれるパワーこそ、この世で最強の愛という癒し。治癒のパワー!!!
それは、だれでもない、自分でしか生み出せないもの。
大阪から愛知への移動時でした。
降雪で通行止めとなっていた新名神の開通(17:00)をまって大阪を出発したのですが、亀山ジャンクションを境に超渋滞。
その渋滞にはいる直前、主人と運転をかわり、まぁ、音楽でも聴きながら、とのんびり構えていたところ。
「トンネルを抜けると雪国であった」では、ありませんが・・・。
本当に雪が降ってました。
はじめは気にしていなかったのですが、どんどんと勢いを増し、ついには吹雪いてくる始末。
すると、最近のニュースで目にしていた、突然の大雪に立ち往生する車、寒さに耐えるドライバーの様子などが思い浮かび、なにやらドキドキ。いや~な感じです(笑)。
「とりあえず、次のトンネルまでたどり着きたいね」、と助手席の主人。
しかし、トンネルまでほんの5キロほどなのに、ちっとも動かない。
その間に、雪はふるふる、道路は白くなる。
轍のところだけは、かろうじてアスファルトが見えているのですが、これも、時間の問題か!!!っていうスリリング。
チェーンは積んでいるものの、ノーマルタイヤでどこまで雪をグリップできるのかはまったくの未知数。あー、こういう時、知らないって、こわい!!!
立ち往生するにも、トンネルの中なら雪をしのげます。ガソリンの残り具合も気にしつつなんとか、トンネルまで!祈るような気持ちで、待ち時間の方が長いのろのろ運転に耐えることどのくらいだったでしょう。
ふと、前を見ると、トンネルの入り口が暗闇のなかに浮かび上がってきました。うれしかったですねー。とりあえず一安心。
海を放浪していた人が、陸地を見つけた時の心境って、こんな感じかなーと、思うほど(笑)。
ここは鈴鹿山脈の山の中。
ふたたび、「トンネルを抜けると・・・」という新たな展開を期待するも・・・。
残念!!!
トンネルを抜けてもやっぱり雪は降っていました(笑)。
吹雪く感じは多少和らいでいる気もしましたが、一向に止む気配はなく、道路はどんどん白くなっていきます。
この時、面白かったのは、自分自身の思考の流れ。
どうして、わたしがこんな目に?
わたしは災害にはあまり縁がないはずだぞ!
出発の時間を人任せにしたのがいけなかったか?
などなど、いろんな思考がさんざん出た後は、もう仕方がない、と腹がくくられるんですね。で、出てきたのはなんとも楽観的なイメージ(笑)。都合がよすぎて自分でも笑っちゃいましたが。
「あ、このまま、雪がふりつつも無事に運行できていくんだな。」
というイメージが浮かんだ瞬間、とても安心できました。
すると、その通り、東名へも無事合流でき、合流地点が終わるころには、雪は突然やみました。
まるで、線を引いたように、そこから先は降っていないのです。
もちろん、積もってもいない(笑)。
で、気が付いたことは、どんな状況にあっても、いかに早く平常心に戻れるか、がポイントなんだな。ということ。
人間ですから、状況によっていろんな思考やイメージが浮かぶのはあたりまえ。
でも、そうしたものをすべて見送ってしまえば、そこには、凪の海のように静かな自分自身がいます。そして、おもいがけなイメージを見せてくれる。
きっと、こういうのは、場数を踏むとうまくなる。
そこに命がかかわると、よりスリリングで鮮烈な体験として刻まれる。
生きていくというのは、そういうことだ。
ハンドルを握りつつ、目に映る雪という現実。(過剰な雪はやはり死を連想させます。)
そこから生まれる内なるイメージ。そして、それを流しきった後に生まれた静寂と楽観。いやぁ、良い体感をさせていただきました。
こんな言葉があります。
ワクワクと恐れは同じエネルギーである。
それがポジティブであればワクワクとなるし、ネガティブであれば恐れとなる。
自分の中のポジティブとネガティブを観察することが、自分自身を統率するはじめの一歩ですね!!!