ねぇ かおるさん 耳からつくしが生えてますよ

レイキサロン&スクール風の城☆kaoruの気まぐれ日記

   8月 16

セミとわたし

セミは、実を言うとあまり好みではない。

セミの鳴き声は夏の風情があるし、命あるものの愛しさを感じることは、感じる。

のであるが、いかんせん目の前にその姿が顕わになると、その大きさ、容貌から来る苦手意識がわたしの中で息づくのを否定できない。

セミよ、ごめん!!!

今朝ほど、掃き清めようと表に出たところ、ちょうど我が家の玄関へと至るコンクリートの階段の上に、セミが一匹、じっとしているのを見つけた。

それは、息そひそめて、大樹の幹にとどまっているようでもあった。

わたしが、彼(彼女?)のそばを何度となく行き過ぎても動く気配はなく、わたしが、表を掃き清め、水遣りを終え、玄関のたたきとポーチの拭き掃除を終えても、まだそこにいらっしゃる。

セミというもの。仰向けにひっくりかえってしまっていても、もう死んでしまったのかな、、、と手だしをしようものなら、バタバタバタと羽音をたてて目の前を飛んでいったりするものだから、何度となく驚かされている、というのはきっと多くの人が体験していることだろう。

このセミは、しっかりと自分の足でコンクリートに立っているのだから、きっとまだ息はあるのだろう。

このままずっとここにいて、お客様がいらっしゃると、お互い(セミもお客様も!)びっくりするだろうし・・・。

疲れてここで一休みしているようなら、ひとつレイキでも・・・と、彼に向かって左の手のひらを向けてみた。

すると、ジンジンというヒビキとともに、命が息づいているのが伝わってくる。

うーん、やっぱり生きているんだねぇ。

そんなことを感じながら、レイキを送ることしばし。

ほんの少々の時間だったけれども、送ることに興味がなくなった時点で潔くレイキを終えた。

そして、わたしは、いつもなら、主人のために、ポストから新聞を取り出して行くのだが、なんとなく、今日は、新聞はそのままに、セミを残して部屋に戻った。

引き続き、部屋で家事をしていると、ベッドから起きだした主人が新聞を取りに扉を開けた。

セミが、ジジジジと声を上げながら飛び立っていくのが聞こえた。

めでたし、めでたし^^。


   8月 01

ガラスの破片

やってしまいましたー(笑)。

こかげの会のお客様をお迎えに上がる直前、こんな記事を書き上げ、意気揚々と素足を満喫していたところ、左の足裏を貫く鋭い痛み・・・。

すかさず足の裏を観ると、ちょうど第三指の付け根から2センチ弱下のあたりに、キラリと光るガラスの破片。

水晶のようなそのかがやきに、一瞬美しいなぁと、想いつつ、その小さな破片を指で取り去ろうとするもつまめず。

それは、少し前に、派手に落として粉々に砕け散ったガラスの保存ビンのかけらだったのでしょう。

引き抜くのにぴったりのピンセットすぐにはみつからず、時間もないし、とりあえず、足の裏の破片はそのままにお迎えにいくことにしました。

たしか、2年ほどまえにも同じようなことがありました。

同じく、こかげの会のお客さまをお迎えにあがる直前でした(笑)。

その時の経験から、レイキをしておくと、とげは自然に出てくることを体験していたので、みなさまがお帰りになった後、さっそくガラスの破片に取り組みました。

こかげの会でレイキをまるっと2時間していたので、もう必要なかったかもしれませんが、患部にしばらくレイキをしてみました。

ヒビキはばっちりあり、ピリピリしたり脈動を感じました。

患部を観ると、分厚い足裏の皮の奥底に入ってしまって、どこに破片がささっているかすでにわからなくなっていました。

しかし、お客さまをお送りする時に、うっかり左足を完全着地してしまった時に、ズキリといたんだのでまだ、中にあるはずです。

そこで、熱いお湯でぬたらしたタオルで足裏の皮をやわらかくすることにしました。お風呂に入れば足裏もやわらかくなるので、それまで待つことも考えましたが、それまで足裏を気にして行動することはもはや考えられず、即実行!

患部にタオルを当てながら同時にレイキをすることしばし。

足裏の皮も少しやわらかくなったところで、患部をよーく見てみると・・・。

ガラスの破片の気配をようやく察知することができました。思っていた傷口よりも少し奥に入り込んでいたようです。そこだ、、、と狙いをさだめて、足裏の皮を少しだけピンセットの先でめくって、出口を作ってあげると、ガラスの破片はするりと浮き上がり、自ら抜き出てきてくれました。

あとは、それをピンセットでつまんで、めでたしめでたし。

ちなみに、その破片さまこんな感じ。

ね、きれーでしょう!!!

garasu

 

 


   7月 15

甘露の泉

満ち満ちて

こぼれ出る

甘露の泉

父への手当ての最中だった。

わたしの中の、小さな聖杯がみちみちて、あふれ出ていくのが見えた。

気が付けば、その小さな聖杯は、いつしか、わたしと父が共有する空間を支配するほどに大きくなっていた。

わたしは、その聖杯の傍らで父に手当てをしている。

見上げるほどに背の高くなった聖杯からは、滋味あふれる聖水が満ち満ちてこぼれ出ている。

辺り一面、こぼれでた聖杯の恵みに満ちあふれ、秘境の密林のようだった。

そこでは、いのちといういのちが生い茂り、わたしたちを満たしてくれていた・・・。

あまりのゆたかさとうつくしさ、得も言われぬ心地よさに、わたしは、これに名をつけたいと思った。わたしの、たいしてない語彙力の中から探し出した言葉は、甘露の泉。

甘露とは、辞書によると「 中国古来の伝説で、天子が仁政を施すと、天が感じて降らすという甘い露。」。ウィキペディアでは、「中華世界古代の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされた。」とある。

おなじ日。母に手当てをした。

また、甘露の泉を味わうことになるかと思いきや、観音のイメージが現れた。

こちらはまた、繊細で慈悲深く、なんとも心安らぐひとときであった。

甘露の泉。

これもまた、わたしの新たなエネルギーガジェットにしようと思う(笑)。


   7月 04

石の叡智

昨日体験したクリスタルヒーリング

それは、今もまだ、わたしの中で、新鮮でとても興味深い感覚として息づいています。

真夜中に、しんしんと降り積もる雪のようなたしかさで、なにか、とても大切なことを語りかけてくれているように思うのです。

すでに慣れして親しんでいるレイキとも、クリスタルボウルの癒しとも違う、石ならではの叡智とでもいうのでしょうか。

悠久の時の流れの中、気の遠くなるような「今」の積み重ねを経て、はぐくまれてきた石たち。

ゆるぎのない意思と、その存在の確かさ。

その美しい在り方、しっかりとこの身に刻んでいきたいと思います。

compassion昨晩、湯船につかってレイキを始めると、両方の手のひらの中央に、ハスの花がぽんと開きました。

うつくしいですね~。まるで観音様みたいでした(笑)。

ちなみに、クリスタルヒーリングをしていただいた方は、とても慈愛に満ちた方で、その方をイメージして描かれた絵には、Compassion(慈悲)という文字が刻まれていました。

あ、これ、第二のエネルギーガジェットになりそうです。笑、笑、笑!!!

クンツァイトって、慈悲や慈愛をイメージしますね。

クリスタルヒーリングの時、クンツァイトをハートの真ん中に置いてもらったら、その波動がズーンと胸の深くまで下りてきてその内で静かに広がったのでしたのがとても印象的でした。そして、両手の平に熱感を感じたのでした。

それにね、過去に、観音イメージで、クンツァイトでブレスレットをつないだりもしていたんですよね。

蓮の花は、クンツァイト(観音)からもらったのかもしれません^^。

ありがたきしあわせ。

感謝!!!


   7月 01

小さなバラのオーラ

rose2花の水やりをしていて、ふと、一輪の薔薇に目が留まりました。

夏に咲くバラです。

春のものと比べると随分と小さいのですが、今朝ほど三輪咲いていたうちのひとつと目があったのです。

写真ではとらえきれていませんが、あざやかなマゼンダピンクが、かげろうのようにあたりに何かをはなっているように見えました。

不思議な感覚だな。。。と思って、その陽炎のような感じに意識を合わせてみることしばし。

小さなバラのまわりにほんのりとまぁるいオーラ場があるのがわかりました。

そしてまた。

室内にて、ウンベラーダの傍らでしばらく自己レイキをした後、何気なく、その大きな葉を眺めていると、葉と葉の間にただようなにかを見ました。

それは緑いろの玉のようなもので、ふーん、おもしろいなぁと思っていたら、ウンベラーダの葉と葉の間に、金色の網の目のオーラ場が見えました。

なにか、また、新たな感覚が開く時なのでしょうか。

注意深く見守っていきたいと思います^^。