ねぇ かおるさん 耳からつくしが生えてますよ

レイキサロン&スクール風の城☆kaoruの気まぐれ日記

   1月 16

思いやり☆家庭とレイキ

昨日、会社を早退した夫。

わたしが、水曜日の午後を二子玉川で満喫して帰宅すると、寝室で布団にくるまっていました。普段は玄関で焚いているアラジンストーブまで部屋に引き込んで!

幸い、食欲はあるようだし、熱もありません。

この日は、夫の体調に合わせるかのように、焼き魚と味噌汁という和風のメニューでしたが、白ごはん2杯、ちゃっかりおかわりしていましたね。

夜、レイキをさせてもらうと、鎖骨を中心とした胸の上部がすっかり冷えていました。(風呂あがりにもかかわらず!)

肩まわりを触っただけでもゾワっとして、風邪などの時の特有の感触がありました。

せっかくだからと、本人の要望もあり、録画してある「探偵ナイトスクープ」(これ、大笑いできるので、上質のエンターテイメントとして超おすすめです!癒しと健康に効きますよ~、マジで。くだらなさとまじめさの中に、純粋な愛を感じてしまうのです。)を見ながらレイキをすることにしました。

その前に、かぐや姫の物語の制作ドキュメンタリーも見たりして、結局1時間半くらい手をあてていましたね(笑)。

おかげさまで、冷えていた鎖骨まわりはずいぶん温まり、本人も大分楽になったといって眠りにつきました。

これでもう十分だと思うのですが、こんな時こそ、探究心がうずきますねぇ。

その後、お風呂に入った時に、湯船から少々遠隔させてもらいました。(こういう時は、ヒビキも強くなるし変化も出やすいので絶好のレイキチャンスにるのです!)

その時には、両目のあたりに前後から圧迫感がありましたので、その圧迫感が緩むまでレイキを。

そして眠る時。添い寝して、夫の腹部(臍よりもした)に手を当てました。ぞくぞくぞわぞわと冷えていた気が動き流れ出ていくのを感じながら、わたしも眠りに・・・。

今朝は、喉の違和感がまだあるようでしたが、夫は元気に会社に行きました。

余談ですが、昨日、午後から会社を早退して夫が眠っていた寝室は、部屋に入ると、こちらまで頭がいたくなるような違和感を感じるほどでしたが、今朝の寝室は、きれいなもんでした(笑)。昨日は、それだけ体調が悪かったということですね。

こんな風に、ちょっと元気がないなぁとか、調子が悪いなぁという時、そばにいる家族なら、いつでも手を当ててあげることができます。

それが、レイキの素晴らしさですね。

そんな時は、本人も気が弱っていたりするので、ささいな気遣いや思いやりがとても心に響くものです。

レイキなら、道具も何もいらない。さっと、手を当てる、その心さえあれば、いつでもどこでも大切な人の役に立つことができます。

そういう日々の小さな積み重ねが、健やかな体と心を育んでいくことは間違いありません。

思いやりというひとつの表現としても、レイキはすばらしいなぁ・・・。改めて、家庭におけるレイキの普及にもっともっとお役に立ちたいものだなぁと思いました。


   1月 09

「かぐや姫の物語」と第二シンボル

年が明けて1月2日に、かぐや姫の物語を大阪は高槻の映画館で観てきました。

<以下、ネタばれ満載ですので、どうぞご注意を^^☆>

別の映画を見たときの予告編で、独特のタッチの画風と、だれもが知る「かぐや姫」とあってとても興味が湧いたのです。そして年末にかけて。わたしのフェイスブックつながりでは、続々と、この映画を見た感動が投稿され、一層の興味が!

だれもが知っているこのストーリーにどんな味付けをするのだろうと、静かなときめきと興奮を感じつつ、すっかりこの物語の世界に引き込まれた2時間余り。

かぐや姫の心境というものが、わたしにとってはあまりにも自然でした。

自分の心で感じて、手足を使って、意志を使って、全身全霊で生きるということのゆたかさを享受した田舎時代。

都に移り、それができないという状況から、思わず、月に助けを求めてしまったという心の叫び。

月を眺めながら、ひとり琴を奏でる心境。(ちなみに、わたしは、今は、ライアーという竪琴を弾きます。)

それぞれが、わたしの今、および過去の体験とシンクロし、深い共感を得ました。

実は、10代の頃のわたしは、大学の国文学科を志望するほど古典の世界が大好きでした。古文の音の響きが好きで、源氏物語の冒頭を覚えて暗唱しては楽しんでいました。

御簾越しに行われる男女の和歌のやりとりや、清少納言や紫式部に代表されるような女性たちの機知あるやりとりとかいうものにも、ものすごくあこがれを抱いていました。

研究室では、竹取物語を論文の課題に選ぶ先輩もいたのですが、教授に、題材として研究されつくしているし、世界が小さすぎる、という鋭い指摘をされていたことを今でも覚えています。

もちろん、今ではそういった世界とはすっかり無縁になりましたが、この映画を見て、まず感じたのは、「御簾の中に囲われたお姫様なんてわたしには耐えられない!」ということ。

衝撃的でした。

あんなにあこがれていた平安時代の風俗がわたしにとっては、すっかり不自由の象徴になってしまったのですから。もう、タイムスリップしても、御簾の中のお姫さまにはなれないし、頼まれてもお断りです(笑)。

貴公子たちの求婚場面に至っては、なんとかして自分のものにしようと、御簾の向こうのかぐや姫におのおのが述べた口上には、嫌悪すら覚えました。

そこに、かぐや姫が心を持った人であるという認識はみじんもなく、もちろん「愛」などはかけらもない。

幼きころ、絵本や物語でこうしたシーンは何度も耳にしたり目にしたりしてきたはずですが、たくさんの男の人に求婚されていいなぁという羨望こそあれ、嫌悪など感じたこともありませんでした。

そういう自分の反応に驚くと同時に、もうわたしは、そうした世界にあこがれていた自分とはまったく違う世界に生きているのだということを実感しました。

今のわたしは、自分で感じ、考え、自らの足で歩き、この手を使って、わが世界を創造し、それを全身全霊で体験しています。

そして、わたしが一番印象的だったのは、最後に月からの迎えがやってくるシーン。

お迎えのご一行に向けて、地上から放たれた矢が花に変わった瞬間でした。

そうだよ、そう。わたしたちはこれをしなくっちゃ!!!

どんなエネルギー(想念)を向けられても、わたしたちには心という変換機をつかって慈愛(花)に変えることができる!

それが人間というものの可能性と素晴らしさだわ。

そんな連想につながって、実は、この瞬間に、わたしの魂はここ一番の歓喜を体験していました。

だから、わたしは生まれてきたんだ。それがしたくって!!!という衝動とともに。

そして、美しい音楽とともに描写された月からの御一行をながめながら、せんだって受け取った第二シンボルの体感とイメージが、これにそっくりだなと思いました。まさに、極楽浄土だったのですねぇ。

映画の中では、かぐや姫は、月、つまり天界に帰ってしまったけれど、もはや、天界(光)、地上(闇)という二極化した世界ではなく、みずからが心の中の天界を生きていかなくてはならない時代だと思いました。

あの、極楽浄土の音楽を聴きながら、わたしたちは、この地に生きるのです。

痛くても、辛くても、悲しくても。

ひとつひとつの体験を糧に、愛を学び、本来のわたしたちへと目覚めていくのです。

それが、魂の喜び。生きるということ。

そんなことを、あらためて感じさせてくれる「かぐや姫の物語」でした。


   12月 26

亡き祖母との邂逅

この12月に続いたレベル3では、みなさまとご一緒にワークをさせていただく中で、わたし自身の意識の変化を実感させていただくことができました。

父方の亡き祖母との邂逅もそのひとつです。

あるワークの中で、レイキのお作法を使って、今は亡き父方の祖母を感じてみました。

実は、その数日まえだったか、こんな夢を見たのです。

「父方の亡き祖母が夢に。厳しい人で、周りのひとからもそういう風にみられていた人が、とても優しくなっていた。夢の中で、わたしの母の人の好さと重なるような表情を見せて驚いた。家族でとりくんでいる癒しの現れかな^^☆」

夢を見た直後に、ツイッターに飛ばしておいた心のメモです。

祖母は男まさりな面のある人で、お金をつくるのが上手でした。しかし、そのお金を持つが故の苦悩を最後まで手放せないでいたようでした。

お金がなくなったらどうしよう・・・。
お金がなくなったら誰も自分のことを相手にしてくれないのではないか・・・。

そんな恐れがいつでも祖母を、あらゆる人との関係性において、頑なにしているようでした。

当然、わたしたち孫との関係も希薄で、遊びにいっても、いつも祖母はわたしたちから遠いところに座って,
その間を取り持つのは母だったような記憶しかありません。

本当は、愛してほしいし、自分も愛したかっただろうに、そのもっとも豊かな方法を今生では表現できなかったのだと、今は、思います。

そんな祖母でしたから、実の息子である父との関係性もいろいろあったようでした。

絶対的な祖母のもとに、一切の意思表示を放棄してしまった父。

それは、幼いころからの、母子の関係性のつみかさねが父をそうさせたのでしょう。

それに連なる深いトラウマが、父の肉体の症状となって表現されているのだろう、というのがわたしの常々の思いでした。

だから、先にご紹介した夢を見た時、わたしたち家族にとっての一つの癒しが起きたのだと思いました。それが、たまたまわたしの夢を通じて表現されたのだと。

これは、食道にガンが見つかったということがきっかけで父に頻繁に遠隔するようになっていたこととも関係があると思っています。

本質的な癒しというのは、ワンネンスの感覚の中で起こります。それは、いわゆる個々の顕在意識という浅いところではなく、意識の深い深いところ(そこは他の人の潜在意識ともつながっている)で起こります。

そこでは、自他の区別はありません。

あなたの癒しは、わたしの癒しであり。わたしの癒しはあなたの癒しなのです。

つまり、この夢は、父とわたし、という自他の区別のないところで起こったひとつの癒しととらえることもできる訳です。

ワークの直前、そんな祖母の夢を想いだし、はじめて、祖母とつながってみよう!と思いました。

すると、まず、つながった瞬間、「泣きたい気持ち」というのが体を通じて伝わってきました。

わたしの内側の全経絡が収縮し、ぞくぞくとした感覚が湧きあがってきました。

悲しみがこみ上げて涙が出る時の、あの感じ。とてもとても明確でした。

祖母の、深い悲しみ。今生では表現することも、体験することもできなかった「愛」。

とにかく祖母は本当はもっともっと泣きたかったのだなぁと感じました。

と、同時に、私の外側には、おおらかな愛につつまれた本質的な祖母の存在を感じました。

生きている時には、叶わなかったけれど、こうして、祖母の気持ちを感じることで、ただただ、本当に愛に不器用な人だったんだなぁと想えて、慈愛の気持ちが湧いてきました。

こうして、つづっていると、ほんの少しだけれども祖母の気配が体感を通じて伝わってきますね。

でも、それは、あのワークの時のような泣きたい気持ちではなく、ちょっと喉のあたりにつまりがあるような感じ。

(実際、祖母は舌癌をわずらった時期もあり、最後は骨折したまま起きる気力がなくなり床に伏したまま亡くなったと聞いています。)

こうして、感じてあげたり、思い出してあげることで、無念の想いが晴らされたり、流れたりして、癒しが起きるものなのですね。

人の心ってほんとうにすごいなぁ!!!

せっかく生まれてきたのだから、この自分のこころを、世界がゆたかになるように使っていきたいと改めて思いました。

☆☆☆

おばあちゃん、ありがとう。
生きている間は、わたしも心を開けなくてごめんね。
おばあちゃんがつらかった気持ち、今ならよくわかる。
だれも、自分の知っている愛しか表現できないし、理解もできないものね。
だからこそ、そういう人の「個性」を愛して生きていきたいと思うよ。

おかげさまで、今、おとうさんもわたしもしあわせです。
おとうさんは、相変わらず、植物と動物が好きだよ。

おばぁちゃんが、精一杯生きてくれたおかげで
今のわたしたちがあります。

ほんとうに、ほんとうに、ありがとう!!!

孫娘より

☆☆☆

PS.最後は、わたしも、本当に泣けました。こうして記事にする経過が、わたしたちの癒しをまた一段深めてくれたように思います。


   12月 22

さらなる変化@第四シンボル

この日のレベル3で、第4シンボルを通じて、またしても新たな変化を感じました。

ながらく、まっしろな空間の中、わたしの頭上で光り輝いておりました第4シンボル。

わたしは、その眩しさに圧倒されっぱなしでありました。

それが、先日、わたしは、そのシンボルの手の内に抱かれたという印象を持ちました。

そして、今回。

アチューメント中に、何度も使用していく中で、とうとう、わたしという宇宙の中にイメージとして浮かび上がりました。

光と闇を内包し、すべてを受容する第4シンボル。

それは、わたしの内にあり、同時に外にもあったのです!

そして気が付きました。

これは、レベル3のテキストにある、「わたしのうちに光明が存在し、光明のうちにわたしはある」という表現にも通じるな、と。

もう、ただただ、ひたすらに感謝であります!!!

合掌。


   12月 20

宇宙が動くとき

本格的に冷えるようになりましたね。

今日は、雪にならなくて本当によかったです!

子ども心としては、雪はうれしいですが、大人の事情となると、なかなかやっかいな北斜面の坂の上にある我が家です。

プライベートで、家族や友人に遠隔をさせていただく時や、遠隔レイキコミュニティひだまりの会での遠隔に参加する時。

冬場の絶好の遠隔タイムは、もっぱら湯船。

じっくりあたたまりながら遠隔させていただく心地よさは冬ならではの味わいです。

(ちなみに、お仕事で遠隔させていただく時は、岩塩ランプの傍らソファに腰かけてじっくり取り組ませていただいています^^。)

今夜は、湯船の中から父に遠隔をしていました。

対面で、母が、頭部の数か所と、胸部、胃のあたりは毎日していてくれるので、わたしは、主にその他の場所にアプローチするようにしているのですが、今日は、丹田の深部(A)にレイキをしていると、突然、左の耳の奥(B)がジリジリと反応しだし、AからBへと至るエネルギーの道が、ぐぐーんと伸展し始めました。

やややや!
これは、変わり時だゾ!

思わず身もだえしたくなるような左耳の奥のジリジリ感に驚きつつ、そのまま湯船で遠隔を続けているとのぼせてしまいそうだったので、いったん遠隔を中断して、お風呂からあがることにしました。

ソファに腰かけて、父の両耳から遠隔を再開すると、先ほどのAの地点を中心として、腹部のあたたかくなめらかなこと!

さらに遠隔を続けていくと、胸部や患部も以前には感じられなかった滑らかさやあたたかさを感じることができました。

そして、父のエネルギーの改善ぶりを観察しつつ、レイキを続けていくと、新たに胸部や患部の気の滞りが浮いてはくるのですが、それは、父にはじめて遠隔をしたころの、エネルギーの引きつれ感や、筋ばった感じに比べれば、ほんの軽いものでした。

すると、また、お風呂で感じたような左耳の奥のジリジリが感知されました。と、同時に、腎臓のあたりの気の流れも調整されていく様子がよくわかりました。

(耳と腎臓との関係はよく言われることですが、こうして、レイキをしているとそういう関わりが、なるほどね~とわかることがあります。)

ジリジリと反応する箇所にもフォーカスしつつレイキをしてみましたが、反応が一段したところでこの日の遠隔を終了しました。

30分か1時間はもうレイキしたかな?と思ったら、たったの20分ほどでした(笑)。

こういう、大きな動きは、いつでも起こるという訳ではないので、観察のしどころなのです。

遠隔させてもらっている体感として、ちょっとした宇宙のダンスでもありました。

この年末に帰省した時には、対面でレイキをさせてもらうのが楽しみです!